高  取  町  の  歴  史  
区分 項  目 要          約 関連歴史遺跡
近世 プロローグ

日本一の山城「高取城」の盛衰
  中世の中頃は、越智氏が越智本城(貝吹山城)とともに詰城として高取山城を整えていきました。やがて越智氏が亡び、筒井氏がこの城を引き継ぐと平城たる郡山城の詰城として、その天嶮にたのむところ甚大でありました。しかしまだ「カキ上ゲ城」の域を脱しないものでありました。
  筒井氏が伊賀国に移封されそのあとに、大和・和泉・紀伊百万石の大守として郡山城に入った大納言豊臣秀長の詰城として、鉄砲からの防御に対応した新しい城郭が築城されました。その規模の雄大さ、石垣の堅固にして豪壮な姿はとても二万五千石の小大名の城とは思えなく、百万石の太守豊臣秀長の詰城としての縄張り(土工)であるとうなづけます。
その1

藩主植村氏の入部
  植村氏は徳川家譜代の武士です。譜代の中でも御国衆安祥譜代(徳川家康より四代前)で徳川家興隆と運命をともにした由緒ある武士です。
  槍一筋の武功に輝く植村氏は、出羽守家政のときに家光付となり、幕府大番頭に任ぜられました。そして大阪夏の陣・冬の陣でも戦功があり、将軍家光から吉野の押さえの任務を与えられ、大阪の陣で攻城砲として用いた巨砲ブリキトースを授かり、大和国高取の藩主として高取城を拝領しました。
  九代家長のように幕閣に列し、若年寄さらに老中にまですすんだ藩主もいました。
  高取城は、本丸は標高583.3mの地点に位置し、本丸を中心に二の丸・三の丸・大手郭・吉野口郭・壷坂口郭が連なり、天嶮をたくみに利用し、強固な守りを堅めた城です。
・高取城跡

・宗泉寺(藩主植村氏の菩提寺)

・家老屋敷の長屋門(現在の旧藩主植村氏の住宅)

・武家屋敷及びその時代の足跡
その2

天誅組始末記
  幕末、土佐浪士吉村虎太郎等過激な尊王攘夷論者は、勤王の吉野十津川郷士と共に天誅組を結成し、孝明天皇大和行幸に先立って、大和五条代官所を襲撃し倒幕の第一声を放つに至った。天誅組の行動は武力による倒幕の嚆矢として後世に評価されています。
  高取藩は植村氏入部の時、将軍家光公より吉野の押さえの任務を与えられ、幕末にその任務を果たす時が来たので、士卒一丸となり城門の備えをきびしく、鳥ケ峰に巨砲ブリキトースを据え、国府神社周辺に鉄砲隊、槍隊を伏せ迎撃体制を整えました。天誅組およそ千人が鳥ケ峰に攻め寄せてきて、高取藩は巨砲ブリキトースを撃ち放ったところ、天誅組は破裂弾に驚き総崩れとなり、わずか一ッ時たらずで勝敗は決まりました。再度夜襲をかけてきましたが木ノ辻で迎え撃ち撃退しました。
  天誅組は高取藩必死の防衛戦の前に惨敗し以後の行動に大きな蹉跌をふむことになりました。一方高取藩は京都守護職松平容保より感謝状を授かり御国衆譜代大名の面目を施しました。
・巨砲ブリキトース

・鳥ケ峰古戦場

・木ノ辻夜戦場